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NEZASの探求

“NEZAS”は地域に根ざすことを掲げて名付けられました。ただ、それは単に根を伸ばすとか定着するという意味だけにとどまりません。

むしろ、地域とともにどうあるべきか、人々とともにどうあるべきか、そして人は人とどう向き合うべきか。その答えを追い求めるために動き続けることにこそ、NEZASの真の意味があると考えます。

第2回は、「アート思考」という観点から「自分だけの答え」を見つけることを推奨されている、美術教師でアーティストの末永幸歩さんとの対話を通じて探求してみます。


対談企画 第2回
アート思考で「自分なりの答え」を見つける
――常識を疑って、
これまでとは違った見方を――

ゲスト 末永幸歩さん


主宰:新井将能
協力:PHP研究所『PHP』編集部
構成:若林邦秀
写真:小池彩子

新井将能
(あらいまさよし)

株式会社NEZASホールディングス代表取締役社長。栃木県出身。東洋大学大学院経営学研究科、社会学研究科修了。早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得。経営学修士、社会心理学修士。事業構想大学院大学にて客員教授も務める。

末永幸歩
(すえながゆきほ)

美術教師。東京学芸大学個人研究員。アーティスト。東京都出身。武蔵野美術大学造形学部卒業。東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。知識、技術偏重の美術教育に疑問を持ち、アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いた授業を行なっている。


作品をつくることだけが
アートじゃない


新井 : 末永幸歩さんは、2020年に『13歳からのアート思考』を出版されました。ご自身の体験や、ワークも交えながら「アート思考とは何か」にアプローチされていて、とても腑に落ちる内容でした。
末永さんが「アート思考」というものに関心を寄せられたのは、何がきっかけだったのでしょうか。

末永 : 私は子どもの頃から、両親の影響もあって絵を描いたり何かを創作したりすることに親しんできました。美術が好きで美大に進学し、卒業後は美術教師になりました。
授業はそれなりの評価をいただいていましたが、もっと自分の絵を描きたいという思いから、一度常勤の教職を離れ大学院に入り直しました。ところが、絵を描きたいと思って大学院に行ったはずなのに、あまり描けなくなってしまったんです。

新井 : それはなぜでしょうか。

末永 : 「私は何を描けばいいんだろう」という疑問が出てきたのです。かつての自分みたいに、ただ黙々と描くということができなくなりました。「どこかで発表するためにやるの?」「そもそも私はなぜアートをやるの?」……そんな疑問や違和感が湧き上がるばかりです。
大学院の先生にそのことを話すと、「それでいいのではないですか」と、私の状態を肯定してくださいました。そのとき思ったのです。「こうして以前にはなかった疑問を持つこと自体を大切にして、いわゆる“アート制作”じゃなかったとしても、自分の興味にしたがっていろんなことをやればいいのではないか」と。これも一つのアートのあり方だと気づいたのです。

新井 : そこに末永さんにとっての転機があったのですね。

末永 : そこで、非常勤で教えている学校で生徒たちにこのことを伝えたいと思って、これまでとは違った角度から美術の授業をやり始めました。「立派な作品を完成させることだけがアートじゃないよ」と。これが現在行なっているさまざまなアートワークショップの活動につながっています。


今は存在しない答えを創造する


新井 : 私は何か美術作品を鑑賞する際に、その作品についての解説を事前に読んだり聞いたりすることで鑑賞する基準を自分の中に作ってしまっています。
鑑賞方法について、末永さんはどのようにお考えでしょうか。

末永 : アートといっても、時代によって目的が変化します。たとえば、ルネサンス期の西洋絵画には、聖書のストーリーをわかりやすく伝達するなどの目的がありました。また、肖像画をはじめ、目の前にある物を忠実に再現する「写実的な表現」が求められる時代でした。ある意味、答えがあったといえます。
ところが、19世紀後半に写真が登場したことで、絵画の存在意義が大きく問い直されることになったのです。「アートとは何か」「何を表現することがアートなのか」――20世紀以降のアーティストたちは、新たな問いを立てることから始める必要がありました。

新井 : まさに末永さんの大学院時代の模索と重なる部分がありそうですね。そこが「アート思考」の出発点になるのでしょうか。

末永 : 「アート思考」が何か特別な思考法だとは私は思っていません。ひと言でいえば、「常識を疑って、これまでとは違った見方をしてみること」ではないでしょうか。そこから「自分なりの答え」を見出していく。それがアート思考だと考えています。
そのとき、2通りの答えの出し方があると思うんです。1つは、答えを探すこと。もう1つは、答えをつくることです。アート思考とは、後者のことです。
今ある答えを探し出すことではなくて、今は存在しない答え、誰も想像できないような答えをつくり出していくことがアート思考なんだと思います。

新井 : たしかに私たちは問いを立てられると「答えは何だろうか」と探して、課題を解決することに慣れてしまっている気がします。「常識を疑って~」というお話でしたが、これは誰もが当たり前だと思っている常識のようなものなのか、それとも、個々人が自分の中に持ち合わせている固定観念のようなものなのでしょうか?

末永 : どちらかというと、私は個人の違和感を起点とすることが多いですね。「なんとなく好きじゃない」とか「変な感じがする」とか、疑問や問いにもなっていないような違和感です。それにフタをしないで、そこに目を向けていくんです。裏を返せばそれが、自分の興味のタネを見つけることにつながっていきます。

新井 : 自分の中に生じる感覚を違和感として自覚するためには、どんな方法がありますか。

末永 : 違和感に目を向ける決定的な方法があるわけではないと思います。まずは違和感から目を背けないというマインドがあればいいのではないでしょうか。
私自身が実践していることの一つは「アート鑑賞」です。アートを通して、自分の違和感に目を向けてみる一つの例をご紹介しましょう。


自分の中の違和感にフタをせず、
「自分の答え」を導き出す


末永 : ミリアム・カーンという画家に『美しいブルー』という作品があります。200×195センチのキャンバスいっぱいにブルーを基調に描かれた油彩です。先日、この絵を鑑賞するワークを行ないました。
まず、絵をじっくり見て、気がついたことを書き出していきます。「海のようだ」とか「クールだな」とかです。次に、はじめの自分の見方をあえて否定してみます。「海じゃないとしたら?」「情熱的だとしたら?」などです。他にも「絵の外側に作品の続きがあったとしたら?」「この絵の中に自分が入り込んでみたら?」。視覚だけでなく、他の感覚器官も使ってみます。「どんな音が聞こえる?」「どんなにおいがする?」。

新井 : そうすると、まったく別の視点から作品に触れることになりますね。

末永 : 最後に、自分でこの作品の物語を考えてみるんです、勝手に(笑)。ある人は、「2人の人間が深い海に落ちていく。助けを求めているのに、それを自分は傍観しているだけ」という内容でした。別の人は、「水泳の競技のような形で2人が競い合っている。でも、なんでそんなにがんばっているんだろう」そんなストーリーでした。
面白いのは、どちらもストーリーの中に自分自身の心の内側が表出していることです。

新井 : アート鑑賞を通して自分の中の違和感や疑問と向き合っていくことで、自分の外側にあった作品の中に、自分の内面が映し出されていくのですね。

末永 : アート作品、とくに現代アートには、はっきりとした答えがありません。答えのないものに時間をかけて向き合ってみることで、自分自身が見えてくるのです。

新井 : そのようにアートを鑑賞することで、何が変わってくると思われますか。

末永 : 1つは、「私はこう思う」という自分の答えを持てることです。答えのないアート作品に向き合うとは、まさに「自分の答え」を見つける行為なのです。
もう1つは、他の人の答えに興味を持ち「それ、面白いね」といえるようになることです。自分の答えを持つことは、自己中心的になることではなくて、他の人の考えも受け止められるようになることなんです。
3つめは、「自分事になる」ことです。自分の違和感にフタをせずに、それと向き合う。そして、自分の答えを出して、自分なりの表現をしていく。誰かに頼まれたからでも、誰かに評価されたいからでもないんですね。アーティストとは、そんなふうに仕事をする人のことです。それは芸術でもビジネスでも同じだと思います。

新井 : 目標が与えられる、期限が設定される、そういう外から与えられたものに対応するだけでは、「自分の答え」は見出せないということですね。
「自分事」にするためには、自分自身の思いや興味が出発点でなければならない。そのためには、さまざまな制約から離れたところで、ふと湧きあがる疑問や違和感を大切にする必要があることがわかりました。
今日は貴重なお話をありがとうございました。
(了)

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